出川哲郎さんとは?
引用元:Instagramより
項目 | 詳細 |
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名前 | 出川 哲朗 (でがわ てつろう) |
生年月日 | 1964年2月13日 |
出身地 | 神奈川県横浜市 |
所属事務所 | マセキ芸能社 |
活動開始年 | 1985年 |
代表的な芸風 | リアクション芸 |
現在の代表番組 | 『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』、『世界の果てまでイッテQ!』 |
過去の代表番組 | 『大!天才てれびくん』、『出川哲朗のアイ・アム・スタディー』 |
配偶者 | 阿部瑠理子(2004年結婚) |
受賞歴 | 1993年「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」優勝、2019年「ベストジーニスト」協議会選出部門受賞など |
CM出演 | 2024年上半期TV-CM放送回数ランキングで首位 |
その他の活動 | 俳優、司会者、劇団SHA・LA・LA座長としても活動 |
出川哲朗さんは、横浜市立幸ヶ谷小学校の2年生の頃、滋賀県大津市にある月心寺で調理実習の経験を持つと言われています。
その後、武相高等学校を卒業し、1985年に横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学)を卒業されました。
当時は役者を目指しており、卒業式では「3年B組金八先生 第2シリーズ」の加藤優さん(演:直江喜一さん)をリスペクトした答辞を読み上げるという情熱を持っていました。
1987年2月には、専門学校時代の同級生である内村光良さんや南原清隆さん、入江雅人さんたちと共に「Project team SHA.LA.LA.」(現在の「劇団SHA・LA・LA」)を結成し、座長として劇団の公演を開始しました。
出川さんは、メンバーのギャラ交渉やスケジュール管理も担当し、リーダーシップを発揮されていました。
映画デビューは1986年の『君は裸足の神を見たか』で、その後も映画『男はつらいよ』シリーズに端役で出演。
1986年から1989年にかけて、5作品に連続して出演しており、当時は多くの映画にエキストラとして参加していました。
この頃、ウッチャンナンチャンから「エキストラの帝王」と称されるほど、裏方での活動も目立っていました。
1990年4月から、出川哲朗さんはテレビ番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』に出演されました。
この時期から、本格的にテレビタレントとしての活動を開始し、さらに第一興商の業務用カラオケ映像(KATSUMIさんの「YES,抱きしめて」)にも出演されるなど、多方面での活躍が目立つようになりました。
その後、出川さんはテレビ番組『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』などの体を張ったロケやドッキリ企画で、そのリアクションの面白さが徐々にお茶の間に浸透していきました。
お笑いの素晴らしさに感銘を受け、次第にテレビでの「汚れ役」や「イジられキャラ」としての地位を確立。
1993年には、第13回『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』で優勝し、その存在感をさらに強めました。
一方で、出川さんの「汚れ」キャラクターは、写真週刊誌やゴシップ誌の恰好のターゲットとなり、女性視聴者からの評判は必ずしも良好ではありませんでした。
特に、女性ファッション誌『an・an』の「嫌いな男ランキング」では常連として知られ、2001年から2005年にかけて5年連続で1位を獲得し、「殿堂入り」としてアンケートの対象外となるほどでした。
しかしながら、『世界の果てまでイッテQ!』(2007年放送開始)での体を張ったリアクション芸や「デヴィ夫人の死ぬまでにやりたい10のコト」でのデヴィ夫人との掛け合い、さらには「出川イングリッシュ」などでの活躍により、出川さんの「汚れ役」「イジられキャラ」に徹する姿勢が評価され、本来の人柄も広く認知されるようになりました。
これにより、現在では高い人気と好感度を誇るタレントとして、多くのファンに愛されています。
その後、2009年4月23日には、インターネット放送のアメーバビジョンにて、自身初の冠番組『出川哲朗の俺をおいしくしろ!』が放送開始となりましたが、スタジオの閉鎖に伴い、2010年3月で終了しています。
さらに、2014年8月には地上波で初めての冠番組『出川哲朗のリアルガチ』(テレビ東京)が放送開始となり、2017年4月にはゴールデン帯初の冠番組『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』が同じくテレビ東京で放送開始されました。
そして、2024年1月14日には、還暦を祝うイベント『男・出川哲朗 還暦祭り in 横浜アリーナ』が開催されました。
このイベントには、有吉弘行さん、ウッチャンナンチャンさん、さまぁ~ずさん、ダチョウ倶楽部さんなど、豪華なゲストが多数出演し、出川さんの60歳を祝いました。
出川哲郎さんの背景
引用元:Instagramより
出川哲朗さんの実家は、横浜市にある老舗海苔問屋『つた金海苔店』(株式会社蔦金商店)です。
このお店は1894年に創業され、現在も出川さんの家族が経営しています。
出川さん自身も過去には取締役を務めていました。このお店の商品には、出川さんの顔写真がパッケージに印刷された『元気のりのり』という焼き海苔や味付け海苔などがあり、これらの商品はテレビ番組で何度か取り上げられたこともあります。
その際には、兄の出川雄一郎さん(蔦金商店社長)も一緒に出演しています。
出川さんは、中学時代には水泳部、高校時代には軟式野球部に所属しており、野球では左打ちでした。
また、武相高等学校時代には後輩としてパンチ佐藤さんや堤下敦さんが、中学の後輩には坪倉由幸さんがいました。
高校時代には自称「キレたナイフ」というヤンキーキャラであったと語っています。
さらに、出川さんは矢沢永吉さんの大ファンであり、矢沢さんの自叙伝『成り上がり』をバイブルとしています。
尼寺での修行中には、この本を毎晩読み返しながら自分の人生を見つめ直していたと語っています。
また、2014年9月に出演したラジオ番組『出川哲朗のラジカントロプス2.0』では、彼の人生に影響を与えた曲として矢沢永吉さんの『鎖を引きちぎれ』を挙げています。
サザンオールスターズにも思い入れがあり、特に『旅姿六人衆』という楽曲が好きだと公言しています。
出川哲朗さんは、好きな映画として『ローマの休日』、『ゴッドファーザー』、『グリース』、『男はつらいよ』を挙げています。
特に『グリース』は、学生時代に交際していた彼女と初めて鑑賞した映画で、非常に思い入れの強い作品であると述べています。
また、芸能界を目指すきっかけの一つには、『男はつらいよ』に出演したかったという思いがあったそうです。
出川さんはプロ野球・東京ヤクルトスワローズの熱烈なファンでもあります。
プロ野球シーズン中には、スケジュールの合間を縫って明治神宮野球場に足を運ぶほどの熱心さで、2012年11月にはスワローズ公式ファンクラブ「スワローズ クルー」の名誉会員にも任命されています。
ファンになったきっかけは、安田猛選手に興味を持ったことだそうです。
しかし、ある試合中に神宮球場でカレーを食べながら観戦していた際、後方席から「出川! カレー食ってる場合じゃねえだろ!」と怒鳴られたことがトラウマとなり、それ以来、神宮球場でカレーが食べられなくなったというエピソードもあります。
以前から、出川さんの夢は「単独司会のレギュラー番組を持つこと」であり、それを各所で語ってきました。
しかし、海外ロケや爆破ロケなど、長期収録が必要な企画に出演できなくなる恐れがあり、なかなか実現には至りませんでした。
それでも、2009年4月23日にはインターネット番組『出川哲朗の俺をおいしくしろ!』(AmebaVision)がスタートし、ゲストが出川さんを「おいしくする」という内容で放送されました。
また、『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』(テレビ東京)は歴代最高視聴率を記録し、地方の民放テレビ局でも放送されるほどの人気番組となり、出川さんの全国的な認知度がさらに高まりました。
出川哲朗さんはゴルフが好きですが、ゴルフのマナーやルールを守らないエピソードが多々あります。
例えば、スイングの空振りを1打にカウントしない、バンカーショットの際にクラブを砂につけるなど、ルール違反をしてしまうことがありました。
特技の一つには、「ヌンチャクだるま落とし」があります。これは彼独特の技で、ユニークな趣味の一部です。
愛車はポルシェ・964カレラ2で、カーナビやETCをつけていません。
理由は、「誰かに命令された道を走りたくない」という信念から来ています。
出川さんは、お酒を飲まない下戸であり、以前はコーラを水の代わりに飲むほどの炭酸飲料愛好者でした。
しかし、これが原因で2017年に入院し、それ以降は炭酸飲料を控えています。
座右の銘は、「一生懸命頑張れば、誰かが見ててくれる」という言葉で、これが彼の生き方に大きな影響を与えています。
有吉弘行さんからは「ヘルニア崩れ」というあだ名を付けられ、妻からは「くそてつ」と呼ばれています。
また、結婚の承諾を得るために妻の実家を訪れた際、緊張から放屁してしまったというエピソードもありますが、その場が和んだのは妻の母親のおかげでした。
芸能界でのライバルは上島竜兵さんであり、祖父と父親が共に58歳で亡くなっていることから、2022年に58歳を迎えた出川さんは「絶対死にたくない」と強い意志を持っていました。
2022年5月11日、上島竜兵さんの訃報を受け、その予感が現実化することを懸念する声もありました。
さらに、出川さんの母親の実家は塩釜市にある海苔問屋『石井商店』で、出川さんの家族の経営に関する背景も豊かです。
出川哲郎さんの学歴
引用元:Instagramより
出川哲朗さんの学歴を深掘り
幼少期から小学校時代
出川哲朗さんは、1964年2月13日に神奈川県横浜市で生まれました。
幼少期は、神奈川県横浜市の老舗海苔問屋「つた金海苔店」の裕福な家庭に育ちました。
出川さんは、1967年に幼稚園に入園し、1970年には横浜市立幸ヶ谷小学校に進学しました。
小学生時代の出川さんは、学業よりも友達との遊びに夢中だったとされていますが、特に目立つようなエピソードは少ないようです。
中学時代:水泳部での挑戦
1976年に横浜市立栗田谷中学校に進学した出川さんは、水泳部に所属しました。
この選択は、泳げない自分を克服するためだったそうです。
出川さんは、「栗中のトビウオ」と呼ばれたことがあるものの、実際にはそれほど目立つ成績を残したわけではありませんでした。
しかし、この頃から彼のユーモアセンスが周囲に評価され始め、友達の中でも人気者だったと言われています。
高校時代:スポーツとヤンキー文化
出川さんは、中学校卒業後、神奈川県の私立武相高等学校に進学しました。
同校はスポーツが盛んな学校で、出川さんも軟式野球部に所属していました。
しかし、試合には一度も出場することがなく、もっぱら応援部として活動していたようです。
この時期、出川さんは自称「キレたナイフ」としてヤンキー風の見た目をしていましたが、実際にはそれほど荒れていたわけではなく、見た目が先行していただけだったと言います。
また、彼の家庭は非常に裕福でしたが、高校時代に父親が投資で失敗し、家業が一時期傾いたことがありました。
専門学校時代:俳優への道
高校卒業後、出川さんは横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学)に進学しました。
この学校では、映画製作や俳優養成を学び、後にウッチャンナンチャンの内村光良さんや南原清隆さんと出会い、共に「劇団SHA・LA・LA」を結成することになります。
出川さんは当初、料理人を目指し、滋賀県の尼寺で修行を行っていましたが、映画や演劇への情熱が勝り、最終的に俳優としての道を選びました。
出川哲朗さんの学歴まとめ
学歴 | 学校名 | 期間 | 特記事項 |
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幼稚園 | 横浜市内の幼稚園 | 1967年4月 | 特になし |
小学校 | 横浜市立幸ヶ谷小学校 | 1970年4月~1976年3月 | 将来の夢はレーサー |
中学校 | 横浜市立栗田谷中学校 | 1976年4月~1979年3月 | 水泳部に所属 |
高校 | 武相高等学校 | 1979年4月~1982年3月 | 軟式野球部、応援部として活動 |
専門学校 | 横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学) | 1982年4月~1985年3月 | 内村光良さん、南原清隆さんと出会う |
まとめ
今回は出川哲郎さんについて色々調べてみました。
知りたい情報はありましたでしょうか?
もし間違っていたり、もし欲しい情報がなければ改めて調べますので問い合わせよりご連絡下さい。
最後までお読みいただきありがとうございました。