【最新】小林幸子さんの若い頃は凄かった?現在の経歴や年収・病気や事故の噂について(何故ラスボスと言われてるかも)徹底解説

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小林幸子さんといえば、その豪華な衣装と力強い歌声で日本中を魅了してきた演歌の女王ですが、彼女の若い頃から現在に至るまでの軌跡はご存じでしょうか?

彼女の若い頃のエピソードや、現在の年収にまつわる驚きの事実、そして現在の活動について掘り下げてみたいと思います。

何故事故や病気でされるのか?なぜラスボスと言われてるのか?

演歌界のレジェンド、小林幸子さんの魅力を再発見し、彼女のこれまでの道のりを一緒に辿ってみましょう。

目次

小林幸子さんとは

                           引用元:Instagramより

項目詳細
本名林 幸子(はやし さちこ)
生年月日1953年12月5日
出身地新潟県新潟市
身長165cm
血液型A型
職業歌手、女優、タレント、実業家、YouTuber
事務所幸子プロモーション
デビュー1963年、TBS「歌まね読本」でグランドチャンピオンとなり、翌年「ウソツキ鴎」でデビュー
初期の成功1979年「おもいで酒」が200万枚を超える大ヒット
有名になったきっかけ紅白歌合戦での豪華な衣装とパフォーマンス
主な出演作品「おもいで酒」、「ふたりはひとり」、「もしかしてPartII」、「雪椿」
音楽活動紅白歌合戦に多数出演し、数々のヒット曲をリリース
その他の活動YouTubeチャンネル「小林幸子はYouTuBBA!!」を運営し、ネットでも活躍
現在演歌歌手として活動を続ける一方で、インターネット上での活動も積極的に行っている

小林幸子さんは、新潟県新潟市(現在の新潟市中央区)出身です。

1963年、小学4年生の時にTBSテレビ『歌まね読本』でグランドチャンピオンとなり、審査委員長だった古賀政男さんにスカウトされました。

翌年、家族とともに上京し、古賀事務所に所属しました。

そして、古賀さんが作曲した『ウソツキ鴎』でデビューし、このデビュー曲はレコード販売で20万枚を超えるヒットとなりました。

その後、1966年から1968年にかけて、日本テレビの『九ちゃん!』に「チビッコトリオ」の一員としてレギュラー出演しました。

さらに、1968年にはNET(現:テレビ朝日)で放映された青春ドラマ『青い太陽』に主演し、背泳ぎでオリンピック出場を目指す女学生を演じました。

同ドラマの主題歌と挿入歌も担当し、一躍注目を浴びましたが、その後は歌手業でのヒットが続かず、美空ひばりさんの母親から模倣を嫌われたこともあり、仕事が激減し長い不遇の時期を過ごしました。

低迷期には全国各地を行脚し、地方興行や地元のレコード店、ラジオ局、有線放送局などでのキャンペーン活動を行っていました。

夜には飲み屋やキャバレーで泥酔客に絡まれながら歌う日々が続きました。

また、1969年度にはNHK総合テレビジョンのクイズ番組『チャンスだピンチだ』でアシスタント司会も務めていました。

小林幸子さんは、1971年1月14日号の『週刊平凡』で、東京銀座六丁目の高級クラブ「ピロポ」でホステスとして働いていると報じられました。

同店は加山雄三さんの妹が勤めていることで有名でした。

小林さんはこれを否定し、「六本木の『瀬里奈』で専務の平山成仁さんに会った際に、今度銀座に店を出したから遊びにおいでと言われた」と説明しましたが、実際には1970年12月7日から週に2日程度、店で歌を歌いながらお客の接待をしていたことが確認されています。

なお、1971年1月以前の東映映画への出演については公式プロフィールで公表されていません。

その後、小林さんは日本コロムビアからビクターエンタテインメント、テイチク、ワーナー・パイオニアといったレコード会社を渡り歩き、改名も繰り返しました。

さらに、サンミュージックプロダクションにも所属していました。

1974年には第一プロダクションに移籍し、1977年には雑誌『週刊プレイボーイ』や『平凡パンチ』のグラビアでセミヌードを披露しました。

そして、1979年に『おもいで酒』が有線放送から徐々に知名度を上げ、200万枚以上の大ヒットを記録。

この年の暮れには『第30回NHK紅白歌合戦』に初出場し、全日本有線放送大賞のグランプリ、第21回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞しました。

1980年にはシングル『とまり木』も大ヒットし、その後も『ふたりはひとり』や『もしかしてPartII』(美樹克彦さんとのデュエット曲)、『雪椿』などのヒット曲を次々と生み出し、紅白歌合戦への連続出場も果たしました。

1990年~の活動

出来事
1983年米国ロサンゼルス、ブラジルなどで初めての海外公演を行い、新宿コマ劇場で初の単独座長公演を行う。
1987年第一プロダクションから違約金2億円で独立、個人事務所の幸子プロモーションを設立する。
1988年紅白歌合戦に10回連続出場、自身初の紅組トリを務める。
1993年歌手生活30周年を迎え、NHKホールにて記念リサイタルを行う。紅白に15回連続出場を果たす。
1996年ワーナーミュージック・ジャパンが演歌部門から撤退したことに伴い、日本コロムビアに移籍。
1997年第9回日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞。アニメ『ポケットモンスター』のエンディングテーマソング『ポケットにファンタジー』を担当。イマクニ?、レイモンド・ジョンソンとのユニット「スズキサン」としてシングル『とりかえっこプリーズ』を発売。
1998年芸能生活35周年を迎え、ブルーノート東京にてライブ「35th ANNIVERSARY Boogie&Blues」を開催。『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のエンディングテーマソング『風といっしょに』を担当。『第49回NHK紅白歌合戦』にて同曲を披露。
1999年覆面歌手「Satchomo(サッチョモ)」としてアイフルのCMソング『お地蔵サンバ』を発売。新宿コマ劇場にて「華麗なる幸子の世界」シリーズが開始。

2000年~の活動

出来事
2000年日本レコード大賞 美空ひばりメモリアル選奨受賞。
2001年博多座で女性歌手初の座長公演を行う。『夢の涯て〜子午線の夢』で、日本レコード大賞編曲賞受賞。
2003年芸能生活40周年を迎える。親友の美川憲一とともに、京楽産業のCR「華王」のキャラクターを務める。新潟県加茂市に『雪椿』の歌碑が建立。藤田まさと賞大賞受賞。紅白に25回連続出場を果たす。
2004年第55回NHK紅白歌合戦で自身2度目の紅組トリ、初の大トリを務める。アテネの女神を封印し、雪椿の着物姿で堂々たる歌唱で歌い納めた。
2005年新潟市、新潟県長岡市より特別感謝状を授与。日本レコード大賞特別表彰。
2006年第27回松尾芸能賞大賞受賞。国土交通大臣より感謝状を授与。紺綬褒章を受章。御園座(愛知県名古屋市)にて初座長公演。
2007年長岡市に『越後絶唱』の歌碑が建立。新潟市より「新潟市観光大使」に任命。
2008年芸能生活45周年を迎え、全国3劇場で座長公演を行う(御園座、博多座および明治座初座長)。文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞。第59回紅白歌合戦で45周年記念曲『楼蘭』を熱唱、紅白に30回連続出場を果たす。
2009年国立競技場で第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会の開会式で日本の国歌『君が代』を歌唱。伊東四朗・熱海五郎一座合同公演「日本映画頂上決戦」にゲスト出演。第60回NHK紅白歌合戦に紅組歌手初の31回連続出場を果たす。

2010年~の活動

出来事
2010年台湾台北市でコンサートを行い、台湾政府交通部観光局から「台湾観光親善大使」に任命される。
2011年東日本大震災で被災者を慰問し、株式会社TESホールディングス代表取締役社長の林明男さんと結婚。
2012年幸子プロモーションの社長と専務を解雇し、新曲『絆坂』の発売が無期限延期となる。日本コロムビアと契約解除に合意し、新レーベルを設立。
2013年台湾で開催された「台湾ランタンフェスティバル 2013」に招かれ、2回目の台湾コンサートを開催。
2014年コミックマーケット86に参加し、ミニアルバムCDを頒布し完売。デビュー50周年記念コンサートを日本武道館で開催。
2015年新潟市立日和山小学校の校歌を作詞・作曲し、プロレスデビューや各種イベントで活躍。
2016年NHK BSプレミアム『ワラッチャオ!』のコーナーを担当し、ジャパンエフエムネットワークのラジオ番組『ニコラジパーク』をドグマ風見と担当。
2017年第1回ももいろ歌合戦に出場し、豪華衣装で歌唱。
2019年右目の網膜剥離の緊急手術を受ける。第1回ももいろ歌合戦に出場し、豪華衣装で歌唱。

2020年~の活動

出来事
2020年8月、松岡充さんとユニット「シロクマ」を結成し、『しろくろましろ』をリリース。10月、埼玉西武ライオンズ×オリックス・バファローズ戦の始球式に豪華衣装で登場。12月、文化庁長官表彰を受賞。
2021年6月、東京オリンピック聖火リレーの新潟県PRランナーとして走行し、NHKのど自慢に出演。11月、結婚10周年を祝う。
2022年7月、新型コロナウイルスに感染し、軽症で回復。
2023年5月、異世界漫画『異世界小林幸子〜ラスボス降臨!〜』の連載が開始。

小林幸子さんの若い頃

引用元:Instagramより

初期のキャリア

小林幸子さんは1953年12月5日に新潟県新潟市で生まれました。

彼女の歌手としてのキャリアは非常に早く始まり、1963年には9歳でTBSテレビの『歌まね読本』に出演し、グランドチャンピオンに輝きました。

この成功をきっかけに、翌年には家族とともに上京し、古賀政男さんのもとで『ウソツキ鴎』という楽曲でデビューしました。

このデビュー曲は20万枚以上の売り上げを記録し、大ヒットとなりました​​。

初期の苦労と再出発

1960年代後半から1970年代前半にかけて、小林さんは『九ちゃん!』というテレビ番組に「チビッコトリオ」の一員として出演し、また青春ドラマ『青い太陽』に主演するなど、子役・若手女優としても活動しました。

しかし、歌手としては一時期低迷期を迎えました。

この間、彼女は全国各地を回りながら地元のレコード店やラジオ局、有線放送局などでキャンペーン活動を続け、さらに深夜まで飲み屋やキャバレーで歌い続ける日々を送りました​​。

再ブレイクと大ヒット

1979年、小林さんは『おもいで酒』という楽曲で再ブレイクを果たします。

この曲は200万枚を超える大ヒットとなり、同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。

続いて1980年にはシングル『とまり木』も大ヒットし、さらに『ふたりはひとり』や『もしかしてPartII』などのヒット曲を連発しました。

これにより、小林さんは紅白歌合戦の常連となり、その華やかな衣装とパフォーマンスが毎年話題を呼びました​。

海外公演と独立

1983年にはアメリカのロサンゼルスやブラジルで初めての海外公演を行い、新宿コマ劇場で初の単独座長公演も成功させました。

1987年には第一プロダクションから独立し、個人事務所の幸子プロモーションを設立しました。

このようにして、彼女の活動は国内外でさらに広がりを見せました​。

現在までの活動

小林幸子さんはその後も、文化庁芸術祭の大衆芸能部門での受賞や、国土交通大臣からの感謝状の授与など、多くの賞を受賞しています。

2014年には芸能生活50周年を迎え、日本武道館でファイナルコンサートを開催しました。

さらに、ニコニコ動画などのネット文化とも積極的にコラボレーションし、若い世代からも「ラスボス」として親しまれています​。

小林幸子さんの若い頃の活躍は、その後の長いキャリアにわたる成功の基盤を築いたものであり、彼女の多彩な才能と努力によって支えられてきました。

現在でもその影響力は衰えず、多くのファンから愛されています。

小林幸子さんの年収は?

引用元:Instagramより

1. 音楽活動

小林さんは長い間、演歌歌手として成功を収めており、CDの売り上げやコンサート収益が大きな収入源となっています。

彼女の代表曲『おもいで酒』は200万枚以上の売り上げを記録し、その後も数々のヒット曲をリリースしています。

また、紅白歌合戦に何度も出場していることから、これらのテレビ出演料も収入に大きく貢献しています​。

2. テレビ出演

小林さんは音楽活動に加えて、バラエティ番組やドラマ、クイズ番組など多くのテレビ番組にも出演しています。

特に紅白歌合戦での豪華な衣装とパフォーマンスは視聴者に強い印象を残し、これが継続的なテレビ出演の契機となっています。

また、司会や特別ゲストとしても頻繁に出演しています​​。

3. YouTubeとネット活動

近年、小林さんはYouTubeチャンネル「小林幸子はYouTuBBA!!」を運営しており、これも新たな収入源となっています。

登録者数は18万人以上、総再生回数は2,900万回を超えており、広告収入や企業とのコラボレーションも含まれています。

ネット文化とも積極的にコラボし、若い世代からの支持を得ています​。

4. 広告出演

小林さんはその知名度と影響力から、数多くの企業の広告塔としても活動しています。

特にCM出演料は大きな収入源となっており、企業と年間契約を結び、高額な報酬を得ています。

広告出演はテレビCMに限らず、雑誌やインターネット広告にも広がっています。

推定年収

具体的な年収の数字は公表されていませんが、上記の収入源を考慮すると、小林幸子さんの年収は数千万円から億単位に達する可能性があります。

音楽活動、テレビ出演、YouTube収益、広告出演など、複数の高収入源があることから、彼女の年収が非常に高いことは間違いありません​。

小林幸子さんの年収は、多岐にわたる活動とその成功に裏打ちされたものです。

彼女の音楽活動、テレビ出演、YouTubeでの活躍、そして広告出演など、多方面での活動が彼女の高い年収を支えています。

今後もさまざまな分野での活躍が期待されており、さらに収入が増える可能性もあります。

小林幸子さんの病気や事故の噂?

引用元:Instagramより

右目の網膜剥離の手術

2019年に小林幸子さんは右目の網膜剥離の緊急手術を受けました。

この手術により視力の一部が回復しましたが、完全には戻らず、その分左目を酷使することになりました。

この情報は彼女自身が公表し、手術後の経過についても報告しています​。

健康問題と体調管理

小林幸子さんは、長いキャリアの中で多くの公演や活動をこなしてきたため、健康管理には非常に気を使っています。

しかし、特に公表されている病気や健康問題はほとんどありません。

そのため、一部のファンやメディアからは「大きな病気を隠しているのではないか」といった憶測が流れることがあります​。

事故の噂

小林幸子さんに関する事故の噂もありますが、実際に大きな事故に遭ったという事実は確認されていません。

噂が広まる原因としては、彼女の公私にわたる活動の多さや、注目度の高さが挙げられます。

ファンやメディアの関心が高いため、些細な出来事でも大きく取り上げられやすく、誤解や噂が生まれやすい状況です​。

総括

小林幸子さんにまつわる病気や事故の噂は、そのキャリアの長さや公私にわたる多彩な活動から生じています。

特に右目の網膜剥離の手術は大きな話題となりましたが、その他の重大な健康問題や事故についての確かな情報は少なく、多くは憶測や誤解から生まれたものです。

彼女の健康状態については、公式の情報を基に冷静に受け止めることが重要です​。

小林幸子さんは何故ラスボスと言われてる?

引用元:Instagramより

小林幸子さんが「ラスボス」と呼ばれる理由は、その圧倒的な存在感と派手な演出にあります。

紅白歌合戦で毎年見せる豪華絢爛な衣装は、一目見ただけで視聴者を圧倒し、まるでボスキャラクターのような迫力を持っています。

最初に「ラスボス」としてのイメージが定着したのは、2009年の紅白歌合戦です。

この年、小林さんは「メガ幸子」という巨大な衣装をまとい登場しました。

この衣装は、まるで巨大なファンタジーのボスキャラクターのような迫力があり、視聴者の度肝を抜きました。

以降、彼女の登場は毎年の紅白歌合戦のハイライトとなり、その度に「ラスボス」という愛称が定着していきました​​。

さらに、彼女のパフォーマンスは単なる歌唱にとどまらず、壮大な舞台演出と一体となっています。

巨大な装置や舞台セット、特効などを駆使した演出は、まるでゲームや映画のクライマックスシーンを思わせます。

この演出スタイルが、「ラスボス」というニックネームをさらに強化しました​​。

小林幸子さんはまた、ネット文化との親和性も高く、ニコニコ動画などのプラットフォームで活躍する姿が若者の間で「ラスボス」として親しまれています。

彼女の豪華な衣装や圧倒的な存在感は、ゲームやアニメのファンにも通じるものがあり、これがネット上での「ラスボス」キャラクターとしての評価に繋がっています​​。

総じて、小林幸子さんが「ラスボス」と呼ばれるのは、その華麗な衣装と圧倒的なステージパフォーマンス、そして視聴者やネットユーザーの心を掴む独特の存在感にあるのです。

紅白歌合戦でのエピソード

小林幸子さんが「ラスボス」と呼ばれる理由は、その豪華な衣装とパフォーマンスにあります。

2000年の紅白歌合戦で「豪華衣装での出演は今回が最後」と公言した小林さんですが、翌2001年も花をテーマにした『Flower of dream』という豪華衣装で出演しました。

この際、舞台装置を人力に替えることで「封印」発言を事実上覆した形となり、話題を呼びました。

特に2001年の紅白では和田アキ子さんが記者会見で小林さんを批判し、「演歌歌手は嘘吐きが多い」と発言したことが大きな話題になりました。

和田さんは「出場歌手が発表されていないのにどうして衣装制作ができるのか」とも指摘し、小林さんの豪華衣装が紅白出場の確約のように見えることに不満を示しました。

これに対して小林さんは、「見ている人に楽しんでもらうためにやっている」と反論し、自身の立場を強調しました​​。

さらに2003年の紅白では、巨大衣装が電気トラブルで正常に作動しないというハプニングが発生しましたが、小林さんは堂々と歌い切りました。

この際、舞台袖のコンセントが抜けていたことが原因であったことが判明し、話題となりました​​。

2004年には新潟県中越地震の影響を考慮し、豪華衣装を着用せずシンプルな和服で『雪椿』を歌い、大トリを務めました。

この姿勢に多くの視聴者が感動し、その後も豪華衣装を封印せず披露することが続きました。

また、小林さんと美川憲一さんの紅白での衣装対決は、毎年の恒例行事として視聴者の注目を集めました。

この対決が紅白の一大イベントとなり、小林さんの「ラスボス」イメージをさらに強固なものにしました​。

紅白出演歴

1979年~

年度放送回曲目出演順対戦相手
1979年第30回おもいで酒18/23千昌夫
1980年第31回2とまり木22/23森進一
1981年第32回3迷い鳥19/22内山田洋とクール・ファイブ
1982年第33回4おもいで酒(2回目)20/22北島三郎
1983年第34回5ふたたびの20/21森進一
1984年第35回6もしかして19/20五木ひろし
1985年第36回7夫婦しぐれ19/20五木ひろし
1986年第37回8別離(わかれ)19/20五木ひろし
1987年第38回9雪椿17/20新沼謙治
1988年第39回10雪椿(2回目)21/21北島三郎
1989年第40回11福寿草18/20森進一
1990年第41回12天命(いのち)燃ゆ19/29さだまさし
1991年第42回13冬化粧22/28槇原敬之
1992年第43回14恋螢22/28米米CLUB
1993年第44回15約束21/26小林旭
1994年第45回16雨の屋台酒20/25美川憲一
1995年第46回17母ひとり18/25美川憲一
1996年第47回18越後情話18/25シャ乱Q
1997年第48回19幸せ17/25X JAPAN
1998年第49回20風といっしょに18/25T.M.Revolution
1999年第50回21やんちゃ酒23/27さだまさし

2000年~

年度放送回曲目出演順対戦相手
2000年第51回22泣かせ雨23/28郷ひろみ
2001年第52回23夢の涯て〜子午線の夢〜15/27Gackt
2002年第53回24雪泣夜19/27美川憲一
2003年第54回25孔雀21/30美川憲一
2004年第55回26雪椿(3回目)28/28五木ひろし
2005年第56回27越後絶唱19/29T.M.Revolution
2006年第57回28大江戸喧嘩花19/27DJ OZMA
2007年第58回29恋桜16/27Gackt
2008年第59回30楼蘭21/26EXILE
2009年第60回31万葉恋歌 ああ、君待つと20/25福山雅治
2010年第61回32母ちゃんのひとり言17/22福山雅治
2011年第62回33おんなの酒場17/25西田敏行
2015年第66回34千本桜特別企画なし

まとめ

今回は小林幸子さんの若い頃のご活躍や年収・事故や病気の噂、現在の元気なお姿等を調べてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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