【最新】糸井嘉男さんは結婚してる?奥さん(嫁)は誰?年棒やこれまでの経歴や成績などまとめて徹底解説

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糸井嘉男さん。彼の結婚生活や嫁の存在、そして年俸に関する情報は、多くのファンにとって興味深いトピックです。

本記事では、糸井嘉男さんの結婚にまつわるエピソードや、意外と天然な彼について、彼を支える素敵な嫁について詳しく掘り下げます。

また、その驚くべき年俸についても、具体的な数字を交えながらご紹介します。

糸井嘉男さんのプライベートな一面に触れることで、さらに彼の魅力を感じていただけることでしょう。ぜひ、最後までお楽しみください。

目次

糸井嘉男さんとは

                          引用元:Instagramより

項目詳細
名前糸井 嘉男(いとい よしお)
生年月日1981年7月31日
出身地京都府与謝郡岩滝町(現:与謝野町)
身長/体重188cm/99kg
投打右投左打
学歴宮津高等学校、近畿大学
プロ入り2003年ドラフト自由枠で北海道日本ハムファイターズに入団
ポジション外野手
経歴北海道日本ハムファイターズ(2004-2012)
オリックス・バファローズ(2013-2016)
阪神タイガース(2017-2022)
主な記録6年連続「打率3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞」
10年連続オールスターゲーム出場
2013年WBC侍ジャパンの四番打者
引退後YouTuber、野球解説者
天然エピソードハンコの代わりにリップクリームを持参、ホームラン後に酸欠で交代など

プロ入り後に投手から野手への転向に成功した選手の一人として、糸井嘉男さんが挙げられます。彼は野手転向後、日本を代表するいわゆる5ツールプレイヤーとして知られるようになりました。

ベンチプレスで150kgを記録するなど、その怪力で有名ですが、プロ入り当初から筋肉質だったわけではありません。

大学時代はむしろ細身で、野手転向時にバットが重く感じたことがきっかけで、ウエイトトレーニングに熱心に取り組むようになりました。

トレーニング開始から1か月でスーツが合わなくなるほど筋肉が増量し、それに気を良くしてトレーニングにさらに励むようになったのです。

本人曰く、「野球とはかけ離れたトレーニングを行っていた時期もあり、自分のようなトレーニングはお勧めしません」とのことです。

糸井さんは2004年に北海道日本ハムファイターズに投手として入団し、2006年に外野手に転向。

2009年にはレギュラーの座を獲得し、その後11年連続で規定打席に到達、10年連続でオールスターゲームに出場しました。

2013年から4年間はオリックス・バファローズに、2017年から引退まで阪神タイガースに所属しました。

また、2013年にはワールド・ベースボール・クラシックで侍ジャパンの四番打者を務めました。

2021年に行われた北海道日本ハムファイターズのファン投票で「FIGHTERS LEGENDS BEST NINE」の一人に選ばれました。

NPB史上初の6年連続「打率3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞」達成者であり、NPB史上最年長盗塁王記録保持者でもあります。

2019年までにNPB史上7位の通算出塁率.394、NPB史上9位の9度の打率3割を達成しています。

糸井嘉男さんの背景

                          引用元:Instagramより

糸井嘉男さんの愛称は「超人」や「ヨッピ」などがあります。

非常に天然な性格で、プロ4年目のヒーローインタビューでは、インタビュアーに「右中間ってなんですか?」と尋ねるほどです。

この天然ぶりについて、高校時代の監督である市田匡史さんは「天然ボケな行動をしますが、実は繊細です」と評しています。

糸井さんの父親はトライアスロンの元選手で、母親はバレーボールの元国体選手というスポーツ一家で育ちました。

また、母方の祖父は京都府立峰山高等学校の体育教師で、教え子に野村克也さんがいたこともあります。

スポーツに囲まれた環境で育った糸井さんは、小さい頃から運動能力が高く、野球においてもその才能を発揮してきました。

高校時代、糸井さんはスポーツジムから帰る際に電車の中で寝過ごし、自宅から2時間かかる京都駅まで乗り越してしまったことがあります。

このため、翌日の練習を休まざるを得なくなり、これが監督にとって糸井さんの一番の笑い話となっています。

オリックス移籍後の2015年には、当時の森脇浩司一軍監督から主将に任命されました。

しかし、チームは優勝候補とされながら低迷し、森脇監督もシーズン途中で休養(後に監督を辞任)するなど困難な状況が続きました。

糸井さん自身も、「長打を増やすことを意識し過ぎたことに加え、主将の肩書がプレッシャーになった」と振り返っています。

2016年には福良淳一新監督の方針で主将が置かれず、糸井さんは「主将をクビになった」と感じていました。

糸井さんは日本ハム時代から登場曲としてSMAPの『SHAKE』を使用しており、オリックス時代にはファンが「糸井ならヤレルヤ〜♪」とサビを歌うのが恒例でした。

阪神移籍後もこの登場曲は続けられ、阪神ファンにも受け継がれました。

SMAPの解散と同時期に糸井さん自身も阪神への移籍という転機を迎えましたが、この曲は引き続き使用されています。

阪神への移籍について、糸井さんは「毎日悩みに悩んだが、野球人として成長するために新しい環境でチャレンジする必要があると感じた」と述べ、金本監督の熱意に心を打たれたと語っています。

移籍が正式に発表される直前には、退団が決定していたにもかかわらずオリックスのファン感謝イベントに出席し、ファンへの感謝の気持ちを示しました。

大声援で迎えられた糸井さんは、自身のバットに「ありがとう」と記してファンに手渡し、最後はハイタッチで回るなど、ファンとの絆を深めました。

2017年から阪神でチームメイトとなった西岡剛さんとは以前から親交があり、移籍時に西岡さんが糸井さんに背番号7を譲りました。

西岡さんもロッテ入団時から12年間背番号7を着用していましたが、糸井さんが阪神でも7番を希望していることを知り、「糸井さんは自分より実績がある」という理由で背番号を譲ることを決意しました。

移籍交渉中には、糸井さん本人に連絡し、「背番号7にするなら気分よく来て下さい」とのメッセージを伝えたそうです。

オリックス在籍時、視力が1.2あったにもかかわらずレーシック手術を受け、その後は視力が2.0に向上しました。

ドーム上段のスポンサーの看板の文字がよく見えるようになったというエピソードもあります。

糸井嘉男さんの奥さん(嫁)は誰?

佐藤恵美さん

糸井嘉男さんと佐藤恵美さんのなれそめについてご紹介します。

糸井嘉男さんと佐藤恵美さんは、出会ってからすぐに交際をスタートし、2005年10月に結婚しました。

当時、糸井さんは日本ハムファイターズに在籍しており、二軍の鎌ヶ谷球場で練習を行っていました。

お二人は関東で出会い、遠距離恋愛を経て結婚に至ったとされています。

恵美さんは料理が得意で、アスリートフードマイスターの資格を持っており、糸井さんの健康管理をサポートしています。

彼女のサポートのおかげで、糸井さんはプロ野球選手としてのパフォーマンスを高めることができました。

糸井さんも公の場で度々恵美さんへの感謝を述べており、二人の絆の強さが伺えます。

糸井さんの活躍の陰には、恵美さんの支えが大きく関与していることは間違いありません。

お互いに尊重し合い、支え合う関係は、まさに理想的な夫婦の形を示しています。

これからもお二人の素晴らしい関係が続き、糸井さんの新たな挑戦を支えていくことでしょう。

糸井嘉男さんのこれまでの経歴

                         引用元:Instagramより

糸井嘉男さんは、1981年7月31日に京都府与謝郡岩滝町(現:与謝野町)で生まれました。

父親はトライアスロン選手であり、現役を続けています。

小学3年生の夏休みに、家族と共に初めて甲子園球場を訪れた際、真弓明信さんがホームランを打つ姿を見たことが、プロ野球選手を目指すきっかけとなりました。

中学時代は硬式野球部ではなく、旧岩滝町の橋立中学校の軟式野球部に所属していました。

3年生の時、府大会に繋がる重要な試合の日、試合前の練習中に顧問の教師に「帰れ!」と怒鳴られ、それを真に受けて帰宅してしまいました。

試合へ出発するチームのバスに向かって自宅の二階から「頑張ってこいよ〜!」と手を振って見送るというエピソードもあります。

エースが不在のため、チームは早々に敗退し、私立強豪校からの誘いを受けられず、岩滝町に隣接する宮津市にある京都府立宮津高等学校に進学しました。

高校入学早々に、膝の痛みを診断され、中学2年時から膝の皿が割れていたことが発覚し、すぐに手術を受けました。

リハビリを経て2年生の春には走れるようになり、春先の練習試合で復帰しましたが、肩の痛みを発症し降板しました。

肩の手術を受け、3年春から復帰を果たしましたが、実質的に3年生の4か月しかプレーしていませんでした。

それでも投手として阪神タイガースのスカウトから注目されましたが、ドラフト会議での指名が確実ではなかったため、近畿大学に進学しました。

近畿大学野球部では、1年秋から先発を務めましたが、同学年のエース野村宏之さんや1学年下の貴志款八さんの陰に隠れ、3年時の2002年春までリーグ戦に出場しませんでした。

しかし、同年の秋季リーグでデビューし、4年時の春季リーグではエースとして活躍し、リーグMVP・最優秀投手・ベストナインの三冠に輝きました。

大学選手権では初戦で馬原孝浩さんと投げ合いましたが、5回コールド負けを喫しました。大学通算成績は19試合に登板し、9勝2敗、防御率1.49でした。

2003年11月19日に行われたプロ野球ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズに自由獲得枠で入団し、契約金1億円、年俸1500万円、背番号26となりました。

日本ハム時代

                         引用元:Instagramより

糸井嘉男さんの日本ハム時代について振り返ります。

プロ入りから外野手転向まで

2004年から2005年の2年間、糸井さんは一軍登録されることなく、二軍で通算36試合に登板し、8勝9敗3セーブ、防御率4.86の成績を残しました。

しかし、2006年4月25日に正式に外野手にコンバートされます。投手として結果を残せなかった糸井さんは、高田繁GMに投手失格を宣言されましたが、足の速さなど野手としての素質を見込まれての転向でした。

この転向にはチームメイトの新庄剛志さんの助言もあったそうです。

野手転向後の活躍

転向後わずか5か月で、9月度のイースタン・リーグ月間MVPを受賞し、二軍では打率.306、8本塁打、8盗塁を記録しました。

同年11月のアジアシリーズでは、チャイナスターズ戦にて一軍初出場を果たしました。

一軍での成功と成長

2007年には野手転向2年目で開幕一軍入りを果たしましたが、すぐに二軍落ち。

しかし9月に再昇格し、プロ初安打・初盗塁を記録しました。

2008年には左翼手として開幕戦先発出場し、シーズン中にプロ入り初の5本塁打を含む63試合に出場しました。

2009年には「7番センター」として開幕スタメンの座を掴み、シーズン通してレギュラーに定着。

特に6月は好調で、月間MVPを受賞し、初のオールスターゲームにも出場しました。

シーズン終了までに打率.306、15本塁打、24盗塁、出塁率.381、長打率.520、OPS.901を記録し、パ・リーグ外野手部門2位で初のベストナインとゴールデングラブ賞をダブル受賞しました。

さらなる飛躍

2010年は「5番センター」として主にクリーンアップを担い、再びオールスターゲームに選出されました。

この年は打率.309、64打点、26盗塁、出塁率.407を記録し、2年連続でゴールデングラブ賞を受賞しました。

2011年には3番打者に昇格し、シーズンを通して打率.319、11本塁打、31盗塁、出塁率.411を記録しました。

リーグトップの出塁率を誇り、3年連続で打率3割を達成しました。

守備でも3年連続でゴールデングラブ賞を受賞し、2度目のベストナインに選ばれました。

最後のシーズン

2012年には右翼手にコンバートされ、4年連続のオールスターゲーム出場を果たしました。

シーズン終盤には怪我を抱えながらも打率.304、出塁率.404で最高出塁率のタイトルを獲得し、ゴールデングラブ賞を4年連続で受賞しました。

また、クライマックスシリーズではMVPを獲得し、日本シリーズ進出に大きく貢献しました。

糸井嘉男さんの日本ハム時代は、転向後すぐに結果を残し、継続的に成績を向上させ、チームの中心選手として活躍した期間でした。

その功績は、ファンやチームメイトからも高く評価されています。

オリックス時代

                          引用元:Instagramより

糸井嘉男さんのオリックス・バファローズ時代について紹介します。

トレードと新たな挑戦

2013年1月23日、木佐貫洋さん、大引啓次さん、赤田将吾さんとの交換トレードで、八木智哉さんと共にオリックス・バファローズへ移籍することが発表されました。

この大型トレードに球界が驚き、日本ハム時代のチームメイトや監督もその影響を強く感じていました。

糸井さんは「関西出身なので、小さいころからよくテレビで見ていた。優勝目指して頑張りたい」と新しいチームでの目標を語りました。

背番号は日本ハム時代と同じ7となりました。

2013年シーズン

第3回WBC日本代表にも選出され、背番号9を背負い、大会では全7試合に出場し、打率.286、1本塁打、7打点、2盗塁、OPS1.024の好成績を収めました。

シーズンでは打率3割を維持し、ゴールデングラブ賞を受賞しました。自己最多の157安打、17本塁打、33盗塁を記録し、オールスターゲームには両リーグ最多得票で出場しました。

契約更改では自己最高の年俸2億5000万円プラス出来高で契約を更改しました。

2014年シーズン

2014年も好調を維持し、プロ初の4番打者として活躍しました。

最終的に打率.331で初の首位打者、出塁率.424で最高出塁率のタイトルを獲得しました。

シーズン終了後の日米野球2014には、日本代表の3番打者として出場しました。

契約更改では年俸3億5000万円プラス出来高でサインしました。

2015年シーズン

2015年にはオリックスの主将に就任しました。

この年は通算1000安打、通算100本塁打、通算1000試合出場といった節目の記録を次々と達成しました。

しかし、シーズン序盤から満身創痍の状態で出場を続け、右肘靱帯や右足首腱の損傷で戦線を離脱しました。

シーズン終了後には年俸2億8000万円で契約を更改し、PRP療法を受けることで左膝の回復を図りました。

2016年シーズン

2016年も好調を維持し、シーズン初本塁打を打ち、オールスターゲームにも8年連続で出場しました。

9月には公式戦で自身初の3打数連続本塁打を記録し、シーズン50盗塁に到達しました。

最終的に53盗塁を記録し、金子侑司さんと共に盗塁王を獲得しました。

シーズン終了後にはゴールデングラブ賞を受賞し、通算7度目の受賞となりました。

フリーエージェント権行使

2016年11月7日、国内FA権を行使することを表明しました。

オリックスも糸井さんの慰留に努めましたが、最終的に阪神タイガースへ移籍することとなりました。

オリックス時代、糸井嘉男さんはその高いパフォーマンスとリーダーシップでチームを牽引し、多くの記録を打ち立てました。

彼の活躍はファンやチームメイトからも高く評価され、記憶に残る時代となりました。

阪神時代

                         引用元:Instagramより

契約合意と新たなスタート

2016年11月21日、阪神タイガースは糸井嘉男さんとの契約合意を正式に発表しました。

契約期間は4年で、年俸総額は推定18億円以上とされています。背番号は前年まで西岡剛さんが使用していた7を譲り受けました。

2017年シーズン

金本知憲監督から正中堅手の座を確約されていましたが、1月の自主トレーニング中に右膝の関節炎が再発。

春季キャンプでは一軍の「沖縄組」に参加しながら、リハビリを優先させました。

3月31日のシーズン開幕戦では「3番中堅手」として出場し、移籍後初の公式戦で3安打猛打賞を達成しました。

7月には右脇腹の筋挫傷で登録抹消されましたが、8月に一軍復帰し、シーズン最終戦まで全試合に出場。

打率.290、17本塁打、62打点、21盗塁を記録し、リーグ打撃10傑に入りました。

2018年シーズン

開幕スタメンを勝ち取り、3月30日の巨人戦で「3番・右翼手」として出場しました。

5月にはプロ通算150本塁打を達成し、6月には逆転満塁弾を放つなどチームを引っ張りましたが、6月30日のヤクルト戦で死球により右足腓骨を骨折。

その後、オールスターゲームに出場し、7月21日に戦線復帰しましたが、9月には左肩を負傷し、シーズンを終えました。

それでも打率.308、出塁率.420、OPS.900を記録しました。

2019年シーズン

3月29日のヤクルト戦で「3番・右翼手」として開幕スタメン入りを果たしましたが、8月に左足首を負傷し、登録抹消となりました。103試合の出場に留まりましたが、打率.314、出塁率.403を記録しました。

2020年シーズン

古傷の右膝に悩まされ、打撃不振に陥りましたが、9月には月間打率.352と徐々に復調しました。86試合の出場に終わり、オフには年俸1億8500万円で契約を更改しました。

2021年シーズン

3月26日のヤクルト戦で開幕スタメンを逃し、13年続いた開幕スタメン連続記録が途切れました。主に代打としての起用が多く、77試合の出場、打率.208、3本塁打、18打点にとどまりました。オフには年俸8500万円+出来高で契約を更改しました。

2022年シーズンと引退

オープン戦で結果を残し、2年ぶりに開幕スタメンで出場しましたが、5月にぎっくり腰を発症し、その後新型コロナウイルスに感染して登録抹消されました。

9月12日に現役引退を発表し、9月21日の広島戦が引退試合となり、最終打席で安打を放ち、有終の美を飾りました。

糸井嘉男さんの阪神時代は、多くの記録を打ち立て、チームの中心選手として活躍した期間でした。

その功績はファンやチームメイトからも高く評価され、記憶に残る時代となりました。

現役引退後

糸井嘉男さんは、2023年から毎日放送と北海道テレビの野球解説者、そしてデイリースポーツの野球評論家として活動しています。

引退後も野球界において、その豊富な経験と知識を活かし、解説や評論を通じて野球ファンに情報を提供し続けています。

糸井嘉男さんの年俸

                          引用元:Instagramより

年度所属球団推定年俸
2004北海道日本ハムファイターズ1,500万円
2005北海道日本ハムファイターズ1,500万円
2006北海道日本ハムファイターズ1,200万円
2007北海道日本ハムファイターズ1,200万円
2008北海道日本ハムファイターズ1,800万円
2009北海道日本ハムファイターズ6,000万円
2010北海道日本ハムファイターズ1億円
2011北海道日本ハムファイターズ1億9,000万円
2012北海道日本ハムファイターズ2億円
2013オリックス・バファローズ2億5,000万円
2014オリックス・バファローズ3億5,000万円
2015オリックス・バファローズ2億8,000万円
2016オリックス・バファローズ2億8,000万円
2017阪神タイガース3億円
2018阪神タイガース4億円
2019阪神タイガース3億円
2020阪神タイガース1億8,500万円
2021阪神タイガース8,500万円
2022阪神タイガース8,500万円

糸井嘉男さんの年俸の推移を見ると、その卓越したプレーと共に評価が上がり続けたことが分かります。

特にオリックス時代から阪神時代にかけての年俸の大幅な上昇は、彼のチームへの貢献度の高さを物語っています。

2017年には3億円に達し、2018年には4億円と自己最高額に達しました。

引退後も解説者として活躍する糸井さんは、その経験と知識を通じて野球界に新たな視点を提供し続けています。

まとめ

今回は糸井嘉男さんのこれまでの経歴、奥様の話・年俸について調べてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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